絆やつながりが大事だという言葉をきくと、ちょっと反抗心がもたげてしまう。
それで物事を測ると「家族がいる」「たくさんつながっている」人が幸せ。
「未婚、独居」「ひとりの生活を楽しんでいる」人は不幸。
本当にそうかなあと思ってしまう。
人付き合いに疲れた人もいるだろうし、いつでもつながっていることだけが幸せではないんじゃないかな。現にSNSの普及で「いつでもつながれる」ことに疲れはてて「デジタルデトックス」なんて言葉もある位ですから。
そうなると「孤独」「孤立」を感じるのとそうでないのは何が違うのだろう。
単に「つながり」ではない何かがあるのかな、と考えていたとき考え深い本に巡り会いました。
ホームレスの介護を通した「孤立」の考察です。
*抜粋 要約*ホームレスのグループは4人。うちの一人は80歳をゆうに超えていそうなおじいちゃんで、歩くことすらできない寝たきりの状態だった。そして、残りの3人は、おじいちゃんをリアカーに寝かせ、公園で野宿したまま24時間全介護をしていたのである。
夏は蚊や害虫の大群に悩まされ、暑さは半端じゃない。シャワーやお風呂もままならない。
そんな中で寝たきりのおじいちゃんに一日三度食べさせ、濡れたタオルで拭いて身体を清潔に保ち、下の世話をし、雨から守り、暑さや寒さを調整し、そうやって4人は仲良くいきいきと暮らしていたのである。
介護経験がある方であればわかるだろうが、これは並大抵のことではない。4人の間には何の血縁関係もない。
それでも3人は「おじいちゃん」「おじいちゃん」とまるで本当の祖父のように慕って、喜んで世話をしていたのである。
残念なことに、おじいちゃんはしばらくして亡くなった。
すると、それまであれほど密接な共同生活をしていた3人は、バラバラになり、やがて、皆、公園から姿を消した。おじいちゃんがグループの要だったのである。
「人のお世話をする」「自分を必要としている人がいる」このことが、彼らの生を満ち足りたものにし、疑似家族のようなつながりを築きあげていた
阿部彩 弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書) より抜粋
ホームレスの方たちは、様々なことをあきらめているのだと思っていました。それは、自分がしたくないと思っている決めつけだったことを知りました。
この世に生まれてきて何かの役に立ちたい、誰かに必要としてもらいたい。どんな状況でも人はそう考えるんですね。
単に誰かとつながっている、会話ができる、ということでは満たされない。
自分の存在が必要とされていることが大切なのだと感じました。
いじめを受けて「透明な存在」と思ったときに生きていく気持ちを失ってしまう。
パワハラで「おまえはだめなやつだ」「いらない」と繰り返される言葉で「私なんかこの世の中にいらないんだ」と思う。
それは、生きていく意味を考えたときに、自分の役割や存在がここにいることを望まれていない、と考えたときに絶望感を感じてしまうんだな、と。
高齢の方、子供たち、様々な「居場所作り」があります。
単に居場所、誰かと話せるのではなく、役割や存在意義が必要ということですね。
ニュースでたまたま見かけた認知症の方が働く「注文をまちがえる料理店」を思い出しました。
すばらしい笑顔と充実感で働いている姿に「店員さんごっこ」」「出来ない前提」ではなく、本気で役割を持つからこそ輝く姿を見たと思いました。
本当に素敵です → 注文をまちがえる料理店のつくりかた
そう考えると、家族がいても役割も存在感もなく、いてもいなくても自分は同じと感じてしまうならきっと孤独感が強い。
独居でも、友人や恋人がいてお互いの存在を必要としている、または存在意義を感じるような仕事や趣味があるなら孤独ではない。
ただ誰かがそばにいれば孤独ではない、ということに自分なりに答えが見えた気がしました。
単に社会的サポートを充実させればいいという単純な問題ではないですね。
ちょっと古い統計(OECD,2005年)ではありますがOECD加盟国中突出して他人との時間をすごすことがないと回答した方が多い日本。これで孤独大国ニッポンとするのは早計です。
この中にも役割があって充足している方もいるかもしれない。
逆に、他人と過ごしていても孤独感を感じているかもしれない。
支援の必要性は敏感にキャッチしつつ、支援のし過ぎで生きる力を奪う、ということがないように留意しないといけません。
役割とその方の生きがいを考えていく必要が福祉と医療に求められていると思います。