毎日まいにち毎日まいにちまいにち・・・ご飯作り。
我が家は夫がたまにご飯を作ってくれるときもある。が、メインは自分の仕事と思っている。
やる気がある日も、面倒でたまらないときも作る。とにかく味噌汁鍋に水を入れ火にかける。
野菜を切り始める。とにかくとっかかりを作る。
さらに子どもが中学生と高校生になって、毎朝のお弁当作りというミッションも課せられた。
わたしは、テイクアウト、お惣菜を買うことをしない。
子どもたちに昼ご飯のお弁当を買っていかせることも基本的にしない。
出前もとらない。
仕事を常にダブル・トリプルでかけ持ちしてて、決して過保護ではない母親なのだが、ご飯作りだけは大切にしている。
このように書くと
「買ったご飯の何がわるい!」
「忙しくて作っていられない!」
と言われてしまいそうだが、待って欲しい。
ご飯作りが自分のこだわりであるだけ。他の家庭で買い飯が主流でもなんとも思わない。
掃除にこだわりがある、アイロンがけにこだわりがある、片付けにこだわりがある、家事全般は外注などそれぞれの家がそれぞれの価値観で回っていると思う。
私の掃除や洗濯干しの様子を見て雑!!!という人もいるかもしれない。
いいんです、自分がこだわるところを丁寧にやれば、と思う。
ところで、<「おかあさんやすめ」のメニュー>という言い方がとても腹立たしいと思ってしまう。
お......オムライス
か......カレーライス
あ......アイスクリーム
さん...サンドイッチ
や......焼きそば
す......スパゲッティ
め......麺類(目玉焼き)
おかあさん、休んだっていいよ・・・。
むしろそんな日があってもいいじゃない。楽しく食べればいいじゃない。「手抜きしてごめんね」なんて食卓出すより「今日はパスタだよ!」「イエーイ!」って食べた方がずっといい。
(大体、「おかあさんやすめ」なんて、うまいこと言っている風で「アイスクリーム」が入っている時点でうまいこと言えてないので却下です。却下)
話が逸れてしまいました。
食事を作ることは、私にとってコミュニケーションのひとつ。
思春期の子にはちょっと重たいかもしれない、子どもを思う気持ちを伝える手段となる。
試験や行事の日には応援の気持ちを込めて好物を作ったり、疲れていそうな時には胃に優しい和食にしてみたり、風邪の引き始めにはしょうがとニンニクをたっぷり、トロトロに煮込んだポトフを作ったり。
頑張れ、お疲れ様、元気出してね、という言葉を献立に託している。
もしかしたら、普段、至らない母であるところを、食事で罪ほろぼししている部分もあるかもしれないなとも思う。
以前に拒食症だった女性との面談中に、過干渉の母との関係が決定的に悪いけれど反抗できないことで心身共にバランスを崩したという話を聞いた。
その方は、嫌いな母親が手作りしたもので自分の身体がつくられ、そして生命が保たれていることが不愉快だったそう。気持ち悪くて、お弁当も吐き気がこみあげて食べられず、すべて捨てていたという。
間違いなく、身体を作るのは日々の食事だ。
おいしかったと食べてくれることが親子の関係性まで浮き彫りにするなんて。「ごちそうさま」と空っぽのお弁当箱を渡されたり、「明日のお弁当なに?」と言われることは、当たり前のことではないんだな、と強く思う。
急にこんなことを考えたきっかけは、授業作成のため教科書を読んでいると、ある文が目にとまったからだ。
②食べることの喜びや楽しみを通し、より高い次元の身体的・心理的・社会的欲求を満たし、その人がその人らしく生活を送ることが出来るようにすること、という2つの目的があり、できる限り口から食べられるよう援助します
食べる事って心理的・社会的欲求も満たすんだよね、とあらためて感じる。
毎日のご飯作りが「作業」にならないよう、自分への戒めもこめて。
難しい思春期、外で戦っている家族にとってご飯がほっとする存在になるように。
一方で頑張りすぎず、目をつり上げてご飯作りに追われるのでなく、簡単レシピという最強カードを駆使していきたい。