医療の世界にいるときはあまり「支援のし過ぎ」に気を配ることはなかった。それは、自分が未熟だったということもあるけれど、やはり病院や訪問看護で関わる方は病気やケガなど明確な必要性があって、それに対して支援しているから。
しかし、自治体や地域包括支援センターで働くと、福祉の「生活を支える」視点を持つことになる。
福祉の視点で支援をすると、どこからどこまで支援することが本人のためなんだろうと思うことが多々ある。
例えば、<冷蔵庫に期限切れの食物が多くあり、掃除が行き届いていない状況>
ヘルパーさんの支援を受ければ解決する。
でも、本人は主婦としてずっと家のことを行うことを日課にしていたという背景があって、視力も弱り「ほこり」も「賞味期限」も見えていないから気にしていないし、指摘もされたくない。それでなんとか生活は保てているから「人に手伝ってもらう必要はない」という。
でも、別宅に住む家族だったり、近隣の方は心配でヘルパーを入れて欲しいと言う・・・。
他人からの見た目を整えるより本人のプライドや「できている」という自負心を大切にしたい、と私は思っている。
でも賞味期限切れにも限度があるし、体調はやっぱり心配だから定期的に見守りも兼ねてヘルパーさんが入ってくれたら安心とも思う。
しかし、それは「職員として」安心したいからなのか、家族が安心だからなのか、では他人の安心のために本人の気持ちは置き去りにしていいのか
と、とても悩む。
医療や福祉の仕事に就く人は「正義感」「支援したい」「相手のために」という気持ちが強い。
でもこれは悪意よりもはねのけにくく、厄介なものなので、気をつけなければいけない。
なぜなら、悪意であれば怒ったり、結構です!と断れるし「やめてください!」とも言える。
しかし、善意や「あなたのためを思って」と強い気持ちで迫られたら、断りにくくなってしまう。断ることに「申し訳ない気持ち」が芽生えてしまう。
押し切られたことで、自分自身で培ってきた生活や自尊心をポキリと折られ、がっかりしてしまう方もいる。
また、役割をうばわれた喪失感に悩まされてしまう方もいる。
逆に「だったらあれもこれもおねがい」と出来ることまですべて他人任せになってしまうこともある。
支援が本人の生活を脅かすことになってしまう。
あまりぎりぎりに、何かが起きてから動くのではなく、でも介護状態にならないよう予防的に関わり、本人の持っているパワーに少しつっかえ棒をするような支援をしてきたい。けれど、正解はなく、もがく毎日。
何が1番望ましい生活の姿なのか、利用者さんの生きてきた歴史や背景を知る努力をし、配慮をし、遠慮なくぶつかってもらえるような支援者でいたい。本人が望んでいるのか?を常に問い続けようと思う。また、必要と課題分析したサービスであっても、ぐいぐい迫りすぎないように気をつけつつ、ここぞという支援のタイミングは見失わないよう、日々真剣勝負で高齢者支援を行いたいと強く思っている。